似た意味を持つ「諦観」(読み方:ていかん)と「達観」(読み方:たっかん)の違いを例文を使って分かりやすく解説しているページです。
どっちの言葉を使えば日本語として正しいのか、迷った方はこのページの使い分け方を参考にしてみてください。
「諦観」と「達観」という言葉は、どちらも物事を見極めたり真理を悟ったりすることを意味するという共通点があり、本来の意味は少し違いますが混同して使われる傾向があります。
諦観と達観の違い
諦観と達観の意味の違い
諦観と達観の違いを分かりやすく言うと、諦観は物事の本質を捉えた上で諦めることを意味していて、達観は物事の本質を捉えて真理を悟ることを意味しているという違いです。諦観には諦めの意味が含まれますが、達観にはそれがありません。
諦観と達観の使い分け方
諦観とは、物事の本質をはっきりと見極めることや、諦めの境地に達して、悟った状態になり、超然とすることを意味している言葉です。この超然とするというのは、平然とする様子を意味している言葉です。
諦観という言葉は、「諦める」という漢字と「眺める」という意味を持つ漢字で成り立っています。つまり、物事を諦めて眺めることを「諦観」という言葉で表現するものです。また、仏教の言葉では「諦」という字は「悟る」ということも意味しています。
そのことからも、物事の全容を眺めて、本質を理解した上で諦めて悟るような境地のことを「諦観」と表現するようになったものです。「ていかん」と読まれるのが一般的ですが、まれに「たいかん」と読まれることもあります。
対する達観というのは、広く大きな見通しを持っていることや、将来の情勢を見通すことを意味しています。また、目先の物事や細かい出来事などに惑わされることなく、真理や道理を悟ること、悟りの境地で物事に臨むことを意味する言葉でもあります。
達観という言葉には、諦観のような諦めの気持ちは含まれていません。ただ、真理や道理を理解することにより、それらの事実をありのままに受け入れて、平常心で物事に臨むような意味合いを持っている言葉です。
諦観と達観は、物事の本質を見抜いたり、広く大きな視点で見据えたりする意味は同じですが、そこに諦めの気持ちが含まれるかどうかによって、使い分けることが出来るものであると覚えておくようにしましょう。
諦観の意味
諦観とは
諦観とは、物事の本質をはっきりと見極めることや、何かを悟り諦めることで超然とすることを意味しています。ここで言うところの超然というのは、その物事に拘らずに平然としている様子のことを意味しています。
諦観の読み方
諦観は「ていかん」だけではなく「たいかん」と読まれる場合もありますが、ほとんどの場合が「ていかん」の読みで使用されるものです。
表現方法は「諦観の念」「諦観の境地」「自己諦観」
「諦観の念」「諦観の境地」「自己諦観」「諦観している人」などが、諦観を使った一般的な言い回しです。
諦観の使い方
諦観の使われ方としては、例えば「世の中の流れを諦観する」「もはや諦観の境地です」などのように使用されます。
諦観の語源
諦観の「諦」という字は、あきらめる、望みを捨てる、断念する、明らかにするなどの意味を持つ漢字です。「観」の字は、詳しく見る、眺める、考える、見物するなどの意味を持ちます。
つまり、諦観というのは漢字の持つ意味で考えても、物事を詳しく眺めて諦める、物事の真実を明らかにするという意味を持つものであるとわかります。言葉の意味が分からなくなった場合には、漢字の持つ意味から考えても分かりやすいでしょう。
諦観の類語
類語としては、物事の真の意味を知ることや理解をすることを意味する「悟り」、物事を断念することを意味する「諦め」、解決する手段がないことを意味する「お手上げ」などがあります。
諦観の「諦」という字を使った別の単語としては、じっと見つめることや見きわめることを意味する「諦視」、物事の最も大切なところや肝心かなめの点を意味する「要諦」、道理を悟る心や諦めの気持ちを意味する「諦念」などがあります。
達観の意味
達観とは
達観とは、広く大きな見通しを持つことや、将来の情勢を見通すこと、目先のことや細かいことに気を取られずに、真理や道理を悟ることを意味しています。この真理や道理を悟るというのは、俗物を超越して悟りの境地で物事に臨むことを意味しています。
達観の語源
達観の「達」という字は、成し遂げる、物事によく通じる、行きつくなどの意味を持つ漢字です。「観」の字は、「諦観」の「観」と同じく、詳しく見る、眺める、考える、見物するなどの意味を持ちます。
つまり、達観というのは漢字の持つ意味で考えても、物事によく通じて眺めること、成し遂げるための方法を考えることなどの意味を持つものであるとわかります。言葉の意味に迷った場合には、漢字の持つ意味から考えても分かりやすいでしょう。
表現方法は「達観する」「達観した考え」「達観の境地」
「達観する」「達観した考え」「達観の境地」「達観している」などが、達観を使った一般的な言い回しです。
達観の使い方
「時勢を達観する」や「人生を達観する」などのように使用されるものだと覚えておくようにしましょう。
達観という言葉を使う際には、物事の本質を捉えた上で、その本質を受け入れる姿勢を持っているものです。プラスの意味で使用されることも多く、大人びた考えであったり、周囲に惑わされない姿勢について「達観」と表現することの多いものです。
達観の類語
達観の類語・類義語としては、よく見えるようになることを意味する「開眼」、直接的に対象をとらえることを意味する「直観」などがあります。
達観の「達」という字を使った別の単語としては、熟練して深く通じていることを意味する「練達」、厳しく言い渡すことを意味する「厳達」、成し遂げることや目的を果たすことを意味する「達成」などがあります。
諦観の例文
この言葉がよく使われる場面としては、物事の本質を見極めたり、何かを悟って諦めたりすることを表現したい時などが挙げられます。諦観は「ていかん」の他にも「たいかん」と読まれることもあります。
諦観というのは、漢字の意味から考えても「諦めた状態で物事を観る」という意味だと捉えることが出来ます。正確には、物事の本質をしっかりと見極めて、その結果として、何かを悟って諦めることを意味しています。
また、例文2のように、ただ世の中の大枠や全体を見通したり、広い目で物事を観察することについても「諦観」という言葉を使うことが出来ます。文脈によって意味が若干異なってくるので注意をするようにしましょう。
達観の例文
この言葉がよく使われる場面としては、広く大きな視野を持って見通すことや、将来の情勢を見通すこと、目先のことに捕らわれずに、真理や道理を悟ることなどを表現したい時などが挙げられます。
達観というのは、物事の真実や変わらない真理のようなものをしっかりと捉えることで、些細なことに惑わされないようになる境地のことを意味しています。または、そのような境地になることで、将来の情勢を見通すことも「達観」と表現します。
達観には、諦めるというようなマイナスな意味合いは含まれていません。達観はあくまでも、真理を見抜いて、冷静に将来のことなどを見通すような心持ちのことであると覚えておくようにしましょう。