似た意味を持つ「諦念」(読み方:ていねん)と「諦観」(読み方:ていかん)の違いを例文を使って分かりやすく解説しているページです。
どっちの言葉を使えば日本語として正しいのか、迷った方はこのページの使い分け方を参考にしてみてください。
「諦念」と「諦観」という言葉は、どちらも「物事を悟るさま」を意味しているという共通点があり、本来の意味は少し違いますが混同して使われる傾向があります。
諦念と諦観の違い
諦念と諦観の意味の違い
諦念と諦観の違いを分かりやすく言うと、諦念とは物事を悟る心を表し、諦観とは物事を悟ることを表すという違いです。
諦念と諦観の使い方の違い
一つ目の諦念を使った分かりやすい例としては、「深い諦念と愛情に結ばれた理想の結婚であった」「世の成り行きに対して諦念を持つ」「これ以上どうにもならないと諦念を抱く」「彼の表情から諦念めいたものを感じた」などがあります。
二つ目の諦観を使った分かりやすい例としては、「世の中は変えられないと諦観する」「日本人は自然災害に対して諦観している」「諦観論を前提に天災に備える」「この戦争は負けると諦観の念を抱いている」などがあります。
諦念と諦観の使い分け方
諦念と諦観という言葉は、どちらも物事の本質を悟ることや、望みを捨てて諦めることを表します。二つの言葉は仏教に由来する言葉であり、とても似ていますが、意味は微妙に異なります。
諦念と諦観の相違点となる「念」と「観」に着目すると、「念」は思い詰めた考えや気持ちを表し、「観」は考えるさまを表します。「観」は「達観」という熟語にあるように、物事を見て価値や本質をとらえることを意味する漢字です。
つまり、諦念とは、道理を悟る心や、あきらめの気持ちを意味し、心の状態を表す言葉です。一方、諦観とは、道理をはっきりと見極めること、あきらめることを意味し、物事を捉えるさまを表します。この点が、二つの言葉の違いになります。
諦念と諦観の英語表記の違い
諦念も諦観も英語にすると「resignation」「surrender」となり、例えば上記の「深い諦念」を英語にすると「deep resignation」となります。
諦念の意味
諦念とは
諦念とは、道理を悟る心、真理を諦観する心を意味しています。
その他にも、「あきらめの気持ち」の意味も持っています。
表現方法は「諦念を抱く」「諦念に至る」「諦念めいた言葉」
「諦念を抱く」「諦念に至る」「諦念めいた言葉」などが、諦念を使った一般的な言い回しです。
諦念の使い方
「年を重ねることで諦念を持つようになる」「修行をすれば諦念に至ることができるだろうか」「東洋思想の諦念は西洋的哲学にもあります」「今日のゼミでは森鴎外の諦念について議論します」などの文中で使われている諦念は、「道理をさとる心」の意味で使われています。
一方、「国民の間に政治不信とも言える諦念が広がっている」「彼女のブログには諦念感が漂っている」「課長は諦念めいた言葉を発してばかりだ」「英語留学はできないだろうと諦念を抱く」などの文中で使われている諦念は、「あきらめの気持ち」の意味で使われています。
諦念の「諦」は訓読みで「つまびらか」「あきらめる」と読み、「明らかにすること」「希望や見込みがないと思ってやめること」を表します。諦念とは、 道理をわきまえてさとる心、あきらめの気持ち、の二つの意味を持つ言葉です。
諦念の由来
諦念という言葉の由来は、仏教にあります。仏教には、苦諦・集諦・滅諦・道諦から成る「四諦」という概念があり、この四つの真理を悟ることで迷いや苦痛から解放されると考えられています。
諦念の対義語
諦念の対義語・反対語としては、深く気にかけてこだわることを意味する「頓着」、あくまでも自分の意見を主張して譲らないことを意味する「固執」などがあります。
諦念の類語
諦念の類語・類義語としては、物事に対してもつ考えを意味する「観念」、解決する手段が全くないことを意味する「お手上げ」、断念することを意味する「諦め」などがあります。
諦観の意味
諦観とは
諦観とは、本質をはっきりと見極めることを意味しています。
その他にも、「あきらめ、悟って超然とすること」の意味も持っています。
表現方法は「諦観している人」「人生を諦観する」「諦観の念」
「諦観している人」「人生を諦観する」「諦観の念」などが、諦観を使った一般的な言い回しです。
諦観の使い方
「諦観の境地になり安らかな毎日を送っている」「日本の英語教育は不完全であると諦観する」「諦観はポジティブな気持ちを生み出します」などの文中で使われている諦観は、「本質をはっきりと見極めること」の意味で使われています。
一方、「惨状を目の当たりにして諦観の念が胸に広がりました」「人々には天災に対する諦観があります」「60歳を過ぎましたが諦観主義にはなれません」「仏教の四諦観は絶対的なものです」などの文中で使われている諦観は、「あきらめ、悟って超然とすること」の意味で使われています。
諦観の読み方
諦観の読み方は「ていかん」の他に「たいかん」がありますが、一般的には「ていかん」と読まれています。ただし、仏教用語としての「諦観」は「たいかん」と読まれています。「たい」は「諦」の呉音であり、呉音とは仏教経典で多く用いられている読み方です。
諦観とは、もともとは仏教用語であり、本質をはっきり見極めることや悟りを意味する言葉でした。この意味が転じて、事態を察してあきらめることの意味も持つようになり、広く使われるようになった言葉です。
諦観の対義語
諦観の対義語・反対語としては、一つのことに心をとらわれて離れられないことを意味する「執着」、ある物事に心を引かれて拘ることを意味する「執心」などがあります。
諦観の類語
諦観の類語・類義語としては、じっと見つめることや見極めることを意味する「諦視」、物事の真の意味を知ることや理解を意味する「悟り」、あきらめることや観念することを意味する「覚悟」などがあります。
諦念の例文
この言葉がよく使われる場面としては、道理をわきまえてさとる心、あきらめの気持ちを表現したい時などが挙げられます。
例文1の「諦念を持つ」とは、道理を悟って迷わない心を自分のものにすることを表しています。例文4の「諦念を抱く」とは、あきらめの気持ちが心に生じることを表しています。
諦観の例文
この言葉がよく使われる場面としては、本質を明確に見極めること、事態を察してあきらめることを表現したい時などが挙げられます。
例文1から例文3の文中にある諦観は、「本質を明確に見極めること」の意味で用いられています。例文4や例文5の諦観は、「事態を察してあきらめること」の意味で用いられています。例文5の「自己諦観」とは、自分に対する積極的な評価だけでなく、マイナス面も認めて受け入れることをです。
諦念と諦観という言葉は、どちらも「物事を悟るさま」を表します。どちらの言葉を使うか迷った物事を悟る気持ちを表現したい時は「諦念」を、物事を悟ることを表現したい時は「諦観」を使うようにしましょう。